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Credo

私は、キリスト教が嫌いです。
なにが嫌か、と聞かれても上手く説明は出来ないのですが、
さし当たって、「唯一絶対神」というものに対する嫌悪が、その大きな理由のひとつなのだと思います。
無条件に正しいとされる存在、むしろ、「神は正しい」ということを第一の前提として語られる、世界体系。
それに外れたものを容赦なく貶める「信仰」、その一方で、その「信仰」によって、言葉の限りを尽くして賛美される「神」。
・・・そういったものに、言い知れぬ怒りを感じて已まないのです。


しかし、その一方で・・・
私の中に、感情の変化が起こりつつありました。
私は、サークル活動として混声合唱をしています。そのなかで、キリスト教の宗教曲を歌ったりもするのですが・・・
昨年、はじめて宗教曲を歌ったときは、はっきり言って歌うのが嫌でした。神を称える文句が、大嫌いでした。
しかし、歌い続けていくうちにその嫌悪が薄れてゆき、定期演奏会で歌う頃には、ほとんど気にならなくなっていました。
そして今年。二つめの宗教曲を現在歌っているのですが・・・・
もはや、歌うことに喜びすら感じている自分が居ました。

曲が良いためにその歌が好きになった、というのが第一の理由ではあるのですが。

しかし、今の私は、かつてあれほどに嫌悪した「宗教曲の歌詞」・・・それにすら、喜びを感じてしまっているのです。
  「kirie eleison(主よ哀れみ給え)」
  「Requiem aeternam dona eis Domine(主よ 彼らに永久の安息を与え給え)」

そういった言葉を口にすることによって、心の中に不思議な安らぎがもたらされるのです。

私はその矛盾に悩みました。
その問題について考えない日は、一日としてなかったと思います。
そして私は、漸くひとつの結論に達しました。言葉にしてみれば、なんだと思うほど陳腐なものなのですが・・・
結局人は、否、「私」は、神という存在を必要としているのでしょう。
私は、弱い心の持ち主です。それゆえに、「絶対的な保護者」を必要としているのです。
人には打ち明けられないような悩みに苦しむとき、「言わずともそれを理解し、見守っていてくれる存在がある」と想定するだけで、どんなに救われることでしょうか!
そんな存在を、「私は」必要としているのです。

しかし、そう思ってキリスト教の「神」を眺めたところで、それを信奉する気にはなれませんでした。
神に従うものには恩寵を与え、逆らうものには罰を与える神。
結局のところ、自らの「正義」を押し付けているに過ぎない神。
そんなものに身を任せる気には、とてもなれなかったのです。

ならば他の宗教ではどうか。
しかし、キリスト教と根元でつながっているユダヤ教・イスラム教などではダメです。
結局、キリスト教と同じ理由で、信仰することなど出来ません。
では、仏教などの多神教は?
否。「絶対的な保護者」を求めるからには、その神は「絶対的な」存在でなければならないのです。
そのためには、そうしても「一神教」である必要がある・・・

しかし、一神教というものは須らくユダヤ・キリスト教の系譜から派生したもので、瑣末な宗教上の規定はともかく、その根本では言ってることがほとんど変わらない・・・

そもそも、「宗教」というものが、私にとってはいただけないのです。
「神が定めたものである」などとして道徳・思想上の規定を有無を言わせず押し付けてくる、その構造が、どうしても耐えられない。

それでも、私は「神」を必要とする・・・。

そんな思いに悩んでいたこの夏、ある一冊の本を読むことになりました。
遠藤周作の「沈黙」です。
私はその本の中に、答えを見つけたような気がしました。

読んでいない方には、きちんと意味が伝わらないだろうと思うのですが・・・
禁教下の日本において、それでも信仰を守り続けようとする隠れキリシタンたち。彼らのために、危険を犯して密入国を果たしたカトリック司祭。そして、それを弾圧する役人たち。
弾圧のもと、ひどい拷問を受けて死にゆく信者たち。それに対し、神はただ沈黙を続けるのみ・・・
捕らわれの身となった司祭ロドリゴは、長い苦悩の末ついに、それがいちばん正しい道であると決断を下し、踏絵に足をかけることを決意します。
そして、いざ踏絵を行おうとした瞬間、司祭の心に、声が響きます
「踏むが良い。」

その言葉は、神が沈黙を破った言葉なのか、或いは司祭が罪の意識から逃れるために、自ら夢想した言葉なのか・・・
いや、そんなことはどちらでも良い。
とにかく、私は感じたのです。この神だ、と。

私はこの神を求めていたのです。
宗教的な掟に捕らわれることなく、人の痛みを理解し、苦悩の果ての決断を理解する神。
いわば、宗教を超越した神

この神になら、任せられる。
今ここに、信仰告白を行いましょう。


主よ、私はあなたを崇拝し、祈りを捧げます。
が、それ以上のことは何もしません。
宗教的な掟も、道徳説教も、(ひとつの見解として考えこそすれ)あなたの言葉として受け取ることなど、一切いたしません。

だから、主よ、私の祈りを聞いてください。
それ以上の事を私は望みません。
むしろ、それ以上の事を一切なさらないことを、私は望みます。

主よ、間違っても、私に憐れみなどお与えにならないでください。
そのような行いは、あなたを貶めるだけだと、私は信じます。

私は救われるために祈るのではありません。
祈ることによって、すでに私は救われているのです。

私は弱い人間です。
祈りによって憐れみが受けられるなら、私はその憐れみのために祈るようになるでしょう。
しかし今は、そのような穢れた祈りなど、したくはないのです。

私は如何なる宗教へも専心はしません。
また、如何なる宗教をも受け入れましょう。
そして、あなたにのみ、祈りましょう。

私は一切の神話を信じません。
物語として楽しむことはあっても、それとあなたを結び付けたりなどは、一切いたしません。
あなたにそんなものは不要だからです。

私は、祈りたいとき、祈りたいように、あなたに祈ります。
それをただ、聞いていてください。
それだけで良いのです。

あなたを罵倒せねばならなくなったとき、私は迷いなくあなたを罵倒しましょう。
そんなことは無意味ですから。
私があなたを必要とする限り、そんな言葉には何の意味もありませんから。

わが神よ、
以上の旨を以って、私はここに、あなたとの契約を結びます。
私があなたを必要としている間だけ・・・



えっと、最後に一応、再度断っておきますが・・・

私は、何の宗教にも入信した覚えはありません。

とだけ。


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2011.12.08 Thu 02:09  LIYWvQWkwiYF

2011.12.25 Sun 05:24  EhNftkEbWJjHDIhz

2011.12.25 Sun 23:26  LilCmcCbnSbBvNNL







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